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みんな、自分を救おう―今の自分ではない自分に巡り合うために出来ることは何か(4)

こんにちは、USHAです。

こんにちは、と言いながら、ほぼ深夜に書いてます(笑)。

さてさて。

「自分を救う」→「自分らしく生きて幸せに」→「そもそも自分らしくって何?」…という話から、「自分」という認識を正しく持つための話を書いております。

本当の自分を見紛う原因のラストとして挙げたいこと。

それは、「キャラ(人格)形成についての理解不足」。

そもそも、今表に出しているキャラ(人格)=本物の自分、である人がどのくらいいるのでしょうか。

つまり、「キャラ」とは何ぞや、です。

…そもそも論が多くてスミマセン(趣味です)。

20年前、私の最初の師匠(番外編その2で出てくる、魔性の女性)は、私にこう教えてくれました。

 みんな、「私=主役」のドラマを演じている。

 そのドラマでは「私」が主人公であり、他者は脇役。

 そのドラマは、「私」が学ばねばならないテーマが主題であり、それを「私」が理解するために  脇役である周囲が役者として演じている。

 そこには、「私」の味方もいれば、敵もいる。

 友人、恋人、上司、けんか相手、と様々な形をとりながら。

 ただ、それはすべて、「私」が学ぶべきことを学ぶための「お芝居」。

 

 愛すべき相手も、憎むべき相手も、みーんな、その「お芝居」上の「役者」さん。

 みんなに真剣に「役者」をやってもらっているからこそ、「私」は自分に必要な学びができる。

 そして同時に、「私」も、周囲の人たちにとって必要な「脇役」をチョー真面目にやっている。

 それは、もしかしたら嫌なことを言う憎まれ役かもしれない。

 はたまた、心から寄り添う優しい友人役かもしれない。

 ただ、みんな、ドラマで割り当てられた「役」なのだ、と。

 そして、大概の人はそれを己の「人格」とみなしているのだけど、それはあくまでその瞬間瞬間のお役目なのだから、その人自身の「本質」とは限らない。

 だって、テーマが異なるドラマに複数出演している「役者」なのだから。

…というお話でした。

その話を聞いた当時は、

なるほど~、確かに「なんであのときこんなことしちゃったんだろうな」って思うことあるからなあ、きっとそれもお役目だったんだよなあ。

位に感じていましたが。

数秘を習ってから、気付きました。

やはり、色濃くお付き合いがある(悩みがある)関係性は、同じテーマがあるからこそなのだ、と。

あるいは、同じではなくても、お互いかかわることで紐解けるテーマを抱えている者同士が出会っているのだ、と。

「類友」という日本語は、本当によく本質を捉えている…と感じました。

似たような悩みを抱えている方は、やはり集うのです。

その悩みとは、意識上だけではなく、無意識的な、「魂の課題=カルマ解消」も含みます。

…そして、ここからが運命の分かれ道。

同じような悩みや愚痴を抱えている人を見て、「あ、これは自分自身だ(;゚Д゚)!」と気付くのか(鏡の法則)?

それとも、「あ~、アナタも同じよね~(だから私もこのままでいいのよね(*^^)v)」と己に蓋をするのか?

はたまた、「あの人、ホント残念な人よね~(私はああじゃないから)」と、己すら全く認識できないザンネンな人になってしまうのか?

「自分」を見失う道は多々あれど、気付くべき道も同時存在しているのがこの世の中です。

何をどう選ぶのか、気付くのか、気付かないのか、でさえ、実は全て自己責任なのです。

気付きに関しては、本当に他者責任にしがちな風潮はありますが(;^ω^)

ちゃんと、日常でヒントは常日頃ばらまかれているのです。

それにしても、どうして「気付ける」人と「気付けない」人がいるのでしょう?

「ワタシ、何年も努力してきたし、あちこちセミナーにも通って、いっぱい本も読んで…。」

とおっしゃる方も複数お見かけしました。

そのあたりの原因については、次回お話いたします。

今回もお読みいただき、ありがとうございました。