こんにちは、USHAです。
こんにちは、と言いながら、ほぼ深夜に書いてます(笑)。
さてさて。
「自分を救う」→「自分らしく生きて幸せに」→「そもそも自分らしくって何?」…という話から、「自分」という認識を正しく持つための話を書いております。
本当の自分を見紛う原因のラストとして挙げたいこと。
それは、「キャラ(人格)形成についての理解不足」。
そもそも、今表に出しているキャラ(人格)=本物の自分、である人がどのくらいいるのでしょうか。
つまり、「キャラ」とは何ぞや、です。
…そもそも論が多くてスミマセン(趣味です)。
20年前、私の最初の師匠(番外編その2で出てくる、魔性の女性)は、私にこう教えてくれました。
みんな、「私=主役」のドラマを演じている。
そのドラマでは「私」が主人公であり、他者は脇役。
そのドラマは、「私」が学ばねばならないテーマが主題であり、それを「私」が理解するために 脇役である周囲が役者として演じている。
そこには、「私」の味方もいれば、敵もいる。
友人、恋人、上司、けんか相手、と様々な形をとりながら。
ただ、それはすべて、「私」が学ぶべきことを学ぶための「お芝居」。
愛すべき相手も、憎むべき相手も、みーんな、その「お芝居」上の「役者」さん。
みんなに真剣に「役者」をやってもらっているからこそ、「私」は自分に必要な学びができる。
そして同時に、「私」も、周囲の人たちにとって必要な「脇役」をチョー真面目にやっている。
それは、もしかしたら嫌なことを言う憎まれ役かもしれない。
はたまた、心から寄り添う優しい友人役かもしれない。
ただ、みんな、ドラマで割り当てられた「役」なのだ、と。
そして、大概の人はそれを己の「人格」とみなしているのだけど、それはあくまでその瞬間瞬間のお役目なのだから、その人自身の「本質」とは限らない。
だって、テーマが異なるドラマに複数出演している「役者」なのだから。
…というお話でした。
その話を聞いた当時は、
なるほど~、確かに「なんであのときこんなことしちゃったんだろうな」って思うことあるからなあ、きっとそれもお役目だったんだよなあ。
位に感じていましたが。
数秘を習ってから、気付きました。
やはり、色濃くお付き合いがある(悩みがある)関係性は、同じテーマがあるからこそなのだ、と。
あるいは、同じではなくても、お互いかかわることで紐解けるテーマを抱えている者同士が出会っているのだ、と。
「類友」という日本語は、本当によく本質を捉えている…と感じました。
似たような悩みを抱えている方は、やはり集うのです。
その悩みとは、意識上だけではなく、無意識的な、「魂の課題=カルマ解消」も含みます。
…そして、ここからが運命の分かれ道。
同じような悩みや愚痴を抱えている人を見て、「あ、これは自分自身だ(;゚Д゚)!」と気付くのか(鏡の法則)?
それとも、「あ~、アナタも同じよね~(だから私もこのままでいいのよね(*^^)v)」と己に蓋をするのか?
はたまた、「あの人、ホント残念な人よね~(私はああじゃないから)」と、己すら全く認識できないザンネンな人になってしまうのか?
「自分」を見失う道は多々あれど、気付くべき道も同時存在しているのがこの世の中です。
何をどう選ぶのか、気付くのか、気付かないのか、でさえ、実は全て自己責任なのです。
気付きに関しては、本当に他者責任にしがちな風潮はありますが(;^ω^)
ちゃんと、日常でヒントは常日頃ばらまかれているのです。
それにしても、どうして「気付ける」人と「気付けない」人がいるのでしょう?
「ワタシ、何年も努力してきたし、あちこちセミナーにも通って、いっぱい本も読んで…。」
とおっしゃる方も複数お見かけしました。
そのあたりの原因については、次回お話いたします。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。