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みんな、自分を救おう―今の自分ではない自分に巡り合うために出来ることは何か(5)

こんにちは、USHAです。

真冬に寒さも気にせず宇治川のほとりで龍笛練習していたくせに、すっかりあたたかくなった最近は花粉とトビケラ(宇治川近辺にある時期だけ大量発生する虫)にノックダウンされて全く屋外練習行けずにおります…(´;ω;`)

いきなり関係ない話ですみません(汗)。

それはさておきまして。

そろそろ本題の方も、がっつり更新しようと思います。

さっき気付いてしまったのですが、どう考えても「番外編」の方が長編になるんですよね(だってネタがかれこれ20年分以上ある)…。

よろしければ、本編終了してからも、ぼちぼちよろしくお付き合いくださいませ。

さて(←2回目)。

「自分」を救うためには、というお話から、「実は日常でちゃんと『本当の自分』に気付けるチャンスはもらえている、でも、気付ける人と気付けない人がいるのはなぜでしょう?」的なお話になったのが前回です。

その続きです。

まず、

「自分にとってスペシャルで大事なメッセージは、『高い』ところから来る!」

…って思いこんでいらっしゃいませんか?

ここで言う「高い」とは、おカネ的なものも、物理的な高さも、スピリチュアル的な次元も、俗世の社会的地位も全部コミコミです。

ところで、この20年間の、最多アルアル現象。

それは、私がチャネリングして上の方々(指導神、守護神、宇宙エネルギー)のメッセージをお伝えしたクライアントの方々の反応:

「あ~、それ昨日ヨメに言われたわ!」

「それ、いっつも友達に言われるんですよね…(苦笑)」

「今日来る途中で見かけた広告にも、同じこと書いてました。」

等々。

…皆さん、別にウチにわざわざ来られなくても、ちゃんと必要なコト、「聞いて」いらっしゃるではないですか(^-^;

しかし、皆さんこうおっしゃるのです。

「え?いや、だってあれは身内の(友人)の言った言葉だし…。」

「いやいや、たまたま見かけたものに書いてあっただけで…。」

…おカネ払って第三者に言われないと、「大事なメッセージ」だと認識出来ないということでしょう(わざわざおカネ払って聞きに来たのに、家族に日々言われてることと同じって…(;・∀・))。

かく言う私も、同じことを何度も何度も上の方から言われ続けたことは数え切れませんが(笑)。

まあ、それにしても、折角メッセージもらっているのに勿体無い!

ということで、私がよくお伝えするのは、

①「同じことを3人、別の人から言われたら『天の声』と思ってください。」

②「『偶然』って、あるようでありませんからね。あるのは『必然』のみです。」

という二つの言葉です。

まず、①から。

守護霊(神)、指導霊(神)様方は、日々一生懸命私たちに必要なメッセージを語り掛けてくださっているのですが。

みんながみんな、それを「音声」としてダイレクトに聞けるのか(つまりチャネリングできますか)ということになります。

当然守護、指導サイドの方々はそんな事情は熟知してますから、「周りの人」の口を使う訳です。自分たちの言いたいことを、うまく言わせてしまうのです。

「憑依(ひょうい)」、という言葉を耳にされたことはありますか?

まあ、「のっとられた」というやつなのですけど。

この場合は、瞬間憑依、とでもいうのでしょうか。

日頃は憑依しないような人にまで、必要なメッセージを「言わせる」というハイテク能力を駆使して、守護する神様方はメッセージを伝え続けるのです。

しかし、しかし。

身近な人の言葉ほど、右から左に流してしまうのが人間の悲しい性でもあり…。

故に、前述したようなことが多発してしまう訳です。

…ちょっと守護神さま、周りの人間の口を使う能力あるなら、直接自分に伝えてよ!

と思ってしまうかもしれませんんが。

実は、「我」が強いと、上の方々の声はまっすぐには聴けないのです。

仮にチャネル出来る能力をお持ちの方でも、それは同じです(むしろ、「我」を「神」の声と聴いてしまって、人生を踏み外す要因になったりもします)。

ましてや、自身のこととなると、大なり小なり「聞きたくないこと」「言われたくないこと」ってありますよね?

その点、他人の事はヘーキで聞けます。

だって、「他人事」ですから(笑)。

聴くことを阻む恐怖心が無いのです。

故に、そのメッセージを伝えるのを邪魔する「我」が無い逸材として、守護、指導サイドの方々に抜擢されるのです。

なので、「身近な人」「3人(以上)」から「同じこと」を言われたら、要注意!と思っておくのは結構重要です(笑)。

そして、②の「偶然なんて無い」ということですが。

…無いんです(笑)。

これは、私の最初の魔女っ娘(?)師匠、Rさんから教わり、また自分自身でも体験したことでもありますが。

地球上すべてのもの、人が、各々のテーマ(課題)を持って生きています。

そして、そのテーマを各々が理解できるよう、あらゆる角度から、物事が、他人が自分にささやき語りかけ続けてくれているのです。

その為に、「自分が意図して無い」ことは日々起こります。

でも、私たちのうちの果たして何人が、「自分が意図していること=魂のテーマ、課題の解消」となっているでしょうか。

私たちは、「自分が意図していない出来事」で、うまく説明の付かないものを「偶然」と呼んでいるだけなのです。

「偶然」というワードをしょっちゅう口にだしていらっしゃる方。

試しに一度、それを「必然」と言い換えてみませんか?

決して損は致しません。

きっと、今まで気付けなかったことに気付けるでしょう。

最後に余談(体験談)ですが。

昔、インドの聖者様方に色々お世話になった時期がありまして。

インドの聖者様のところには、アシュラムといって、寝泊まりしながら聖者様の近くで修行出来る場があるのです(日本でいう宿坊です)が。

アシュラムにしばらく滞在し、様々な気付きを頂いた後に帰国し、とあるスーパーに買い物に行きました。

肉やら野菜やら選びながら、ふと気付いたのです。

「ああ、アシュラムもスーパーも、同じなんだ。」

と。

その時、私はスーパーで買い物をしながら、アシュラムで瞑想していた時と同じような感覚で、ハッと何かを悟っていました。

アシュラムは、日常の雑多なものがなく、またさらに聖者様の結界の中にいるので、安全に豊かな気付きが得やすい場です。

しかし、それは気付きの為の「絶対」条件ではなく、スーパーという日常の場でも、十分必要な気付きに至れるのだ、と。

要は、自分次第なのだ、と。

どこに居ようが、何をしていようが、今の自分がどこに心を向けているのかが、まず大事なのだ、と。

そのことの気付きの感動の方が深くて、その時何を悟ったのかも、何を買ったのかもすでに記憶からぶっ飛んでしまっておりますが(^-^;

その時の、スーパーからの帰り道がやけに明るく幸せな雰囲気に満ちていたことは、21年経った今でも鮮明に覚えております。

…今スーパーに買い物に行っても、「今日の酒のアテは何にしよ~」、しか思いませんけどね(笑)。

次回は、「変化への恐怖」と、「実は選べる○○…」について書こうと思います。

今回も、お読みいただきありがとうございました。