こんにちは、USHAです。
懇意にしているお客様からのリクエストもありまして、今後気が向いたときに「USHAの成り立ち」について勝手気ままに記してみたいと思います。
霊感が降りて21年目、まあまあ昔のことは忘れかけているので、ただの一個人の備忘録と思って、気になる方だけお読みいただけたら幸いです。
さてさて。
世の中、生まれながらにして霊感がある方がいらっしゃるようですが(私の息子もそのうちの一人ですが)、私自身はそのジャンルにおいては(も)、ごくごく平凡な一少女でした。
強いて言うなら、10代の頃に周囲の方で「2人だけ、死期に近い人が分かったので、母親に気味悪がられた位でしょうか。
フツーに地元静岡の小、中学校に行き、かねてから母親が熱望していた高校にも無事進学し、東京の大学に進学のため実家を離れました。…というと聞こえは言いのかもしれませんが、実は共依存の母親の支配力に耐えかねて、中2の時に「平和的な家出プラン」として実家脱出=他県進学を一人静かに企画しました。
つまり、
静岡県内の大学より上の偏差値を有する大学を希望したら県外脱出出来るという、子供特有の単純プランです。
さらに、その当時から娯楽(TVや漫画)をシャットアウトして1日10時間オーバーで勉強していたので、世の中の情報にはすっかり疎くなりました(笑)。
そして、念願叶って、「脱実家」(*^^*)
しかし、母親は私を自由にさせまいと画策し、門限付きの学生会館に私を放り込みました。
しかも、門限時間に毎晩電話してくるという執着ぶり…(=_=)
さすがに私も辟易し、「いかに支配をあきらめさせるか」と考え、かかってくる電話も毎回は時間通り取らないよう(その都度めちゃくちゃ叱られましたが)気を付けていました。
まあ、そんな位では全然足りない親であったことは後述します(笑)。
一応、大学受験のときに、「弁護士になる」という理由で上京していたのですが(もちろん実家を出るため&指定校推薦をとるための口実)。
大学卒業後は、司法試験に合格するまでは実家に帰る、と勝手に決められていました(^^;)
司法試験も、とりあえず3年生のときに1度とりあえず受けただけで、2度目は母親に強制されて願書は出しましたが、会場にすら行きませんでした(爆)。
この頃は、母親はまだ怖い存在ではありましたが、距離的に離れていた分、計画的に大胆に反抗出来ていたのは良かったと思います。
そして、このように遅ればせながらやってきた反抗期は、その後全力で加速します(笑)。
その後、勝手に東京で就職先を決めた私は、そもそも「腰掛け就職」でした(当時の関係者の皆様、申し訳ありませんm(__)m)。
というのも、母親の圧から逃れたいという一心だけで、「自分のやりたいこと」など、全く分からなかったからです。
しかし、そんな私にも、ある変化が訪れます。
大学卒業後、とある弁護士事務所で、秘書として働いていました。
そして、ある日、いつものように、裁判所までお使いに行っていました。
そこの待合室のベンチに腰掛けていたとき。
私は突然、雷に打たれたように悟ってしまったのです。
「私は、人の本音に触れたいのだ」
と。
そして、1日の大半を使っている業務時間内で、「人の本音」に触れている時間はほぼ皆無であり、それが自分のストレスであったのだ、と。
(実際、働き始めてから非常に体調が悪く、有給前倒しで休暇を頂いている始末でした。)
本当に、今思い返しても、雷に打たれたかの如く、瞬時にそれを理解してしまいました。
そして、その当時得ていた、安定した収入を得られる職から離れなければならない、と。
私は、果たして悩んだのでしょうか…。
まあ、その翌年の春に離職してました(笑)。
そして、そこからが、人生本番への入り口でした。
つまり、物質界への執着(いわゆる安定した社会的地位と収入)から、自身の本質の世界へと入っていけるかどうかのテストだったのかな、と。
そして、その当時の自分は予想すらしてなかった事態が実際待ち構えていたのです…。
続く(笑)…ここから不思議なことが多発します。