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続編 幸せの叶え方 その9 ~ 「在るがまま」を認める、とは

NEW!2021-10-10 00:56:54テーマ:ブログ

こんにちは、USHAです。

なかなか続編が進まず、遂には自分でも何を書いていたっけ?状態に(;^ω^)

続編は、何か訴えたくなった時にだけ書くので、更新するかどうかはインスピレーション次第です(;´∀`)。

で、この数日で、書きたいな、と思っていたことが、なんとガッツリ前回の続きになるような内容でしたので、これは書かねば!と。

そう、本日のお題、それは「在るがまま」。

最近、ブログを読んでくださったお客様から、

「あんな過去を生きていて、辛くなかったですか?」

とか、

「ヒトの邪気とか悪いエネルギーをくらったとき、しんどくないですか?」

とか言われるようになって、改めて己を顧みたのですが…

そういえば、案外大丈夫だな、私。みたいな(笑)。

過去に関しては、もちろんその時々は辛かったですし、若かった頃は「死」を考えるのが当たり前、みたいな時期もありましたけど…。

なんか、今はへっちゃらさん(^-^)

でもそれって、何でだろう?と思っていたのですが…。

もちろん、上(天)の方々の手厚いサポートがあったことは言うに及びませんが。

客観的に見てどんなに酷い状況、状態であっても、それはその人の今の「スタート」地点なのだ、ということを、幼い時から日常で学び続けていたのが一因かもしれません。

そんな「学習」を人生に放り込んできたのも、上の方なのでしょうけど(笑)。

例えば、ちょっぴり物心ついた小1の頃。

自分って、太ってるよなー。

自分って、ブスだよなー。

自分って、性格悪いよなー。

自分って、アタマ悪いよなー。

自分って、運動できないなー。

自分って不器用だなー。

…て、毎日痛感しておりました(^_^;)

全園児数が30人余の私立幼稚園で育っていたので、いきなり1学年200人超の小学校に放り込まれて、初めて周りが見えたのかもしれません(笑)。

毎日毎日、周囲と比較しては自分を卑下しまくってました。

ついでに、何故か幼馴染の数少ない友人にもいじめられる始末。

おかげで低学年の頃は、とにかくひっそり生きることを心掛け、「内気」と銘打たれるような子供でした(;´∀`)

今思い返せば、当時の担任、必死にサポートしてくれてました(笑)。

「まあ、これが自分なんだよな。

嫌なんだったら、変わるしかない。やるしかないか!」

と前向きに思い直し、やれることからやるようになっていったのは小5の頃からでしょうか。

自分=他人にとって嫌なモノしか持ってない、という歪んだ自信を持っていた私を、とにかく「認め」続けた担任のY先生。

それまでたいした成績もとったことのない私に、何故かほぼオール5の成績をつけてくれ、

絵画コンクールでは私の描いた下絵を絶賛した上で、自らがほぼ色塗りを仕上げるという荒業で金賞を取らせてくれるという(;・∀・)

とにかく、褒められ励まされた1年間。

今思い返せば「踊らされて」いたのかもしれませんが、当時の私にとっては、

「もしかしたら、私、やれば出来る子?なのかも?」

という有難い錯覚を抱かせてくださった魔法使いの恩師でもありました。

そして、次第に心が解放されていった私は、

「己のやりたいことと、やらねばならぬと信じたこと」はとにかくやる!

という、大人にとってはある種面倒なコドモとして形成されていったのでした(^_^;)

そんなノリで中学生になってしまったので、

隣のクラスの男子にからかわれたら、窓からクラスに乗り込んで(ドアを閉められていたので)その男子にビンタ食らわせてドアから静かに退室したり。

合唱コンクールで、当時JーPOPでしかない曲を勝手に合唱曲にアレンジして披露してしまったり。

理不尽なことを言って後輩を泣かせた部活顧問の先生と職員室で真っ向から言い合いして、止めに入ったベテラン教師を「お前は関係ないだろ!!」と逆に一括したり。

…書き出したらキリがない位のことはやらかしましたが(汗)。

「他者との比較」と「世の中の常識」にとらわれずに生きた、貴重な時間でもありました。

そして、この伸び伸びと自由に生きていた頃の思い出が、大人になって窮屈な世間のしがらみにつぶされそうになった私を解放するきっかけにもなったのです。

私の最初のドS師匠は、こんなことを教えて下さいました。

~  世間でいう、

   「~ねばならない」

   「~してはいけない」

   というのは、実はトリックでね。

   「常識」とか、「世間体」という、一見破ってはいけない暗黙のルールは、

   実は「破るため」に存在するのよ。  ~

これは、「常識」「世間体」を闇雲に破るべき、ということではありません。

いわゆる常識、世間体と、自分の内側の真実が異なってしまったとき、それを在るがままに認められるかどうか。

それを、実は天が試しているのだ、と。

例えば、

「親は敬いなさい、何をされても許しなさい」

という教えが世の中に存在していたとしても。

毒親に育てられた子供が、果たしてそれを素直に受け入れられるのでしょうか?

「良い子であらねば」と真面目な思いを持つ方は、必死で憎しみを抑えるでしょう。

あるいは、

「敬えないから、私は悪い子なんだ」

と、自尊心を失う方向に走ってしまうかもしれません。

でも。

親も、所詮人の子、不完全な人間なのです。

不完全な人間として、苦しみ、悩み、我が子に不完全なものをぶつけていく。

その負の連鎖が、何代も続いていった結果だとしたら。

しかし、ヒトは、2本の線がお互いよりかかって支えあう「人」という字が表しているように、

そもそもが「不完全」に創られている存在なのです。

完全な人間など、世の中には存在しません。

生まれ持って、「欠落」部分があるのが、人間なのです。

それを、まずは素直に受け入れ、認めていくこと。

欠落があるから、卑下する。のではなく。

欠落を認めたら、まずはそれを補えるのかどうか、やれるだけ、やってみる。

それでも出来ないこと、苦手なことは、素直に認める。

それを、「できますよー!」と背伸びして周囲に訴えたりしなくて良いのです。

自分が出来ないことを、支えてくれる「誰か」は、必ずいる。

そして、自分も、どこかの「誰か」を、自然に支えて生きている。

ジェンダー問題、発達障害の問題など、個々の違いを主張しあう世の中になってきてはおりますが、違いを認めることと、それを優先することは、また別だと思います。

何か特定の価値観を優先することは、逆差別を生み出しかねないからです。

「他者との違い」とは、見方を変えたら、「他者と同じように出来ることと出来ないこと」、ともいえるのではないでしょうか。

その「違い」の正当性を主張しあうより、まずは「自分が出来ない」ことを、まずは本人が素直に認めること。

その上で、「自分が出来ること」を提供しあい、各々が支えあえる関係性でいられる存在を探しあう方が、より平等で平和な世界を生み出せるのではないかと。

そんな社会になっていったらなあ、と思うのです。

たまに書いたら、なんだか長くなってしまいました。

お読み頂きまして、ありがとうございました。

また、「言葉」が降りてきたときに。