こんにちは、USHAです。
3日連続投稿してますが、当然訳アリです(笑)。
実は…
本来やるべきことをちゃんとやらないと、「自分を見つめ直す」Special Timeとして、コロナ隔離がやってくるよー、って予告を2度受けておりまして…T_T
確かに日々の生活にかまけて色々やってなかったのは間違いない…(汗)。
にしても、具体的に何をしたらいいの(@_@。?
と思い、チャネリングノートを読み返してみたところ…。
2月初めのノートに
「2月中旬までにブログ4本あげろ」
と書かれた文字がΣ(‘◉⌓◉’)←書いたのは自分
それに気付いたのが、2月12日の深夜(笑)。
マジかー…( ;∀;)
ということで、3連チャンの投稿となりました、というお話です( ̄▽ ̄)
まあ、風の時代って「個」の時代ですから、「個」としての役割をしっかり果たさないで違うことに尽力してたら、「何してんだ!」ってツッコミが入るんでしょうね、コロナを使って。
コロナで完全隔離されなければ自分のことをじっくり見つめられない位、様々な雑多なことに心も時間も奪われている、ということなのでしょう。
ということで、本日は「病」のお話。
昔のドS師匠に、この先世の中が激変していったらどうなるの?と質問したことがあります。
すると、
「縄文時代に戻るのよ~♪」
と静かなお答えが。
当時は
「??? まさか、毛皮着て、竪穴式住居の生活???」
位にしか思わなかったのですが。
要は、いわゆる「神」と呼ばれる「存在」との距離感が戻る、ということだったようです。
科学文明の力と利器に目がくらみ、なんでもヒトのチカラで出来ると思い込んでしまうようになった現代。
人工知能、クローン人間、といったように、科学の力で生命誕生の領域まで介入できるようになってしまった人類が、「ヒトのチカラではどうにもならないものが在る」ことを素直に受け入れていた縄文時代のスピリットまで、どうやったら還れるのでしょうか。
師匠は、こうも言いました。
「風邪ひとつひいて理解する人もいれば、癌にかかっても分からない人もいるからね~。」
同時期に、私に施術の手ほどきを指導して下さっていたF先生は、同じことをこう表現しておりました。
「痛みは、やたらむやみにとっちゃいけないんだよ。
だって、その人に何かを教えてくれているんだから。
とってもいい痛み、その人にとって不要な痛みは、施術したら勝手に取れていく。
それでも残るものは、その人にとって必要なものなんだよ。」
私たちの大半は、痛いことは嫌なこと、苦しいこと、辛いこと、と認識すると思います。
そして、それは可能な限り回避したい。
それは、むしろ当然な感情です。
ただ、両師匠が伝えているのは、こういうことです。
何故、その病が自分に降りて来ているのか、
何故、今、そのために「病人」というポジションにいるのか。
「病」という教師が何を自分に語り掛けているのか。
そのことに耳を傾けなさい、と。
私の学んだ限りでは、
癌=家族愛、家庭愛を知るための病(関係性を見つめなおしましょう)
自己免疫疾患=カルマ病(前世やご先祖様を見直しましょう)
コロナ=「独り」に還り、己を振り返るための病
繰り返す歯の不調=「愛の理解の仕方」を学びなおす
ギックリ腰=現状がキャパオーバー(生活や抱えていることを見直そう)
足腰のケガ=ストップ!!!(現状のまま進むと危険)
位しか知らないのですが。
ちなみに、肩は一概には言えないので(死者、生霊、神獣、どれが乗っても「肩こり」なので)。
また、腰痛も様々です。
腰は、「他人に言えないor自覚したくない本音、怒り」を秘めた場所でもありますし、性的エネルギーの本拠地でもありますし。
本当に、ヒトの身体はよく「しゃべり」ます。
俗にいう「無意識」の声だと思いますが。
ただ、その声は通常私たちの耳には聞こえないので、私たちは、その声を「痛み」として受け取るのです。
その「声」を、聴くこともなく薬で抑えてしまったとしたら、どうなるでしょうか。
目の前で必死で語り掛けてくれているヒトがいるのに、耳栓して無視するのと同じです。
とはいえ、薬を服用するな、とか、痛いのにひたすら耐えろ、とか、そういうことを言いたい訳ではありません。
現に、私も飲みますし(^▽^;)
ただ、不調が出た時、何らかの病にかかったとき、あるいはけがをしたとき。
「たまたまかかった」とか、「あー、やだなー」で済まさずに、
「神様は、この体験から何を分かれ、と伝えてくれているのだろう?」
という疑問を一度天に向かって投げかけてみたらいかがでしょうか。
よく、
「私はUSHAみたいに『聞こえ』ないから」
と言われますが。
皆さん、ちゃんと察知する方法、能力はあるのです。
仮に「声」として聞こえなくても、
「なんとなく」感じたり。
同じことを、異なる人から複数回言われたり。
同じことを、雑誌や新聞、ネット、TV、看板や広告などで複数回立て続けに目にしたり。
「分かりやすく教えてね~」
って天にリクエストするのもアリです。
よほど自分が耳をふさぎ、目をつぶらない限り、ちゃんと「答え」はやってきます。
そして、それを理解でき、もうこの人に病や痛みは必要ないな、と上の方(天)が判断したら、それは取り払われるのです。
たまに、痛みや病と引き続き「共存」することが必要な方もいらっしゃるでしょう。
それは、その方の大切な学びの一環です。
痛みや病、けがに対して、「不幸」というレッテルを一方的に貼ってしまったら、
私たちは決して学べません。
病もケガも、「ギフト」なのです。
人類が、「自分たちの力の及ばない、目に見えないもの」への畏怖と敬意、
そして己の内面を深く知る為の。
その意識が人類に浸透するまで、
そして人類が「科学の力が全てを解決する」というエゴを手放すまで、
病との追いかけっこは続くのかな、と私は思ってます。
大昔、人が病にかかったとき、まず行ったのはまじないと祈祷でした。
沖縄でも、具合が悪くなったらまずユタ(霊能者)の元へ、とか言われていた(現在は知りませんが)そうです。
昔の人は、良く分かっていた、ということです。
そんな意味で、「縄文時代に還る」必要があるのかな、と思っています。
お読みいただきありがとうございました。